教育課程づくりのとりくみを大きく飛躍させよう!
全教は28~29日、一つひとつの学校からの教育課程づくりの実際のとりくみについて、討論・交流し、教育課程づくりのとりくみを大きく飛躍させることを目的に、『教育課程づくり討論交流集会』を開催。1日目の全体会では、基調報告と「改訂学習指導要領と『自前の教育課程づくり』の意義について」と題した植田健男名古屋大学教授の講演、北海道、京都、大阪からのとりくみの報告。2日目は、7つの分散会で全国各地の実践報告を受け、討論と交流を行いました。この集会には、全国から110人が参加しました。
■ 子どもの実態から出発した教育課程づくりを!――山口隆副委員長
基調報告で山口隆副委員長は、この集会の目的を、①あらためて教育課程づくりの持つ教育的意義について学び合い、共通の認識とすること、②教育課程づくりの実際のとりくみを報告・交流し、とりくみの教訓を学び合うとともに、09年度から始まる移行措置のもとで、どのような教育課程づくりのとりくみを行うかについて交流すること、③青年教職員が旺盛に教育課程づくりのとりくみを学ぶことを通して、教育課程づくりを継承、発展させる展望をひらくこと、④この集会を踏まえ、教育課程づくりの意義を広めるとともに、特別報告や分科会での報告を中心に教育課程づくりの実際のとりくみを多く掲載した職場討議資料を作成し、職場から活用できるようにすること、の4点にわたって指摘し、討論と交流を深めるよう呼びかけました。
山口副委員長は、「子どもの実態から出発した一つひとつの学校からの教育課程づくりこそが、教育の中身づくりであり、教育課程づくりは、学校でしかできないとりくみだ」と教育課程づくりの重要な意義について述べる中で、「学校の果たすべき役割は、子どもの成長・発達の保障にある。子どもたちがその発達の必要性に即し(発達の段階に見合った)、教科の系統性を踏まえて組織された教育内容を学ぶことが必要」であり、「教科外の活動においては、子どもたちが人間として大切にされ、自分や周りの人びとを大切にしながら、人間らしい生き方を自ら主体的に学び取り、問題や課題に直面した時に、自分自身が真剣にこれと向き合うとともに、みんなで力を合わせてその解決のためにとりくむことができる人間として成長することが求められる」と指摘。したがって、「学校における教育活動は、それらを踏まえ、目的意識的、計画的にすすめられるべきものであり、子どもの成長・発達を助けるという基本任務を持つ学校は、そうした教育活動の全体計画=教育課程を持つ必要」があり、「教育活動は、教職員が共同してすすめるものだから、学校の教育課程は、教職員の集団的なとりくみによってつくりあげられなければならず、教職員集団で共有されなければならない」と述べました。
さらに、「教育権の持ち主である父母の願いや要望、意見を反映させる必要がある」と述べ、「教育課程づくりは、父母の学校参加を必然とする」と指摘。「教育課程づくりは、子どもの学校参加、教職員の共同、父母と教職員の共同――『参加と共同の学校づくり』を必然としている」と強調しました。
また、「教育課程をつくる際に、留意しなければならない」こととして、「子どもたちの実態は、学校によってそれぞれ違い、地域の実態もそれぞれ違いがあり、一つひとつの学校が歴史的に蓄積してきた教育の中身や方法もそれぞれ違うことから、教育課程には、何らかの『できあいの教育課程』がどこかに存在するものではなく、子どもの実態を出発点に、一つひとつの学校で『自前の教育課程』をつくるべきとりくみだ」とし、学習指導要領は、「当然に教育課程そのものではなく、教育課程の『大綱的基準』に過ぎず、これを教育課程に代えることはできないものだ。教育行政が学習指導要領を『教育課程』と呼んだり、学習指導要領説明会を『教育課程説明会』などと呼んだりすること、そのものが誤りだ」と批判しました。
■ 必然的に求められる教育課程づくり――植田健男名古屋大学教授
「改訂学習指導要領と『自前の教育課程づくり』の意義について」と題した講演で、名古屋大学大学院教育発達科学研究科の植田健男教授は、今回の改訂学習指導要領について、「もはや一つの国民ではなく、2つの国民に2つの教育内容を与える体制をつくろうとしていることが大きな問題だ」と指摘した上で、「これまでも教育内容上の問題はあったが、少なくとも指導要領は一つだった。ところが今回の指導要領は、出ているのは一つだが明らかに用途が違う使い方をしようとしている」とし、「上位3割の子どもたちに対しては、青天井の教育内容を提供。文科大臣の認定によって、これまでの特区や研究開発校などよりも簡便に、指導要領の制約を越える学校をつくろうと言っている。一方で、7割の子どもたちには、文科大臣が『重点指導事項』なるものをもって最低ギリギリの中身を指定して、反復ドリル学習や安直な体験学習などを広げる、こういう対象にされてしまう。ここで期待される学力の中身は、極めて粗末な、簡便なものになりかねない」と指摘。その上で「これはもはや学校ではない。私たちが戦後、大事にしてきた民主教育、憲法・教育基本法の中で実現しようとしていた教育からは、程遠いものに追い込まれてしまう可能性がある」と批判しました。
また、教育課程づくりについて、「いま、目の前にいる子どもたちが、どういうところで学力的な問題を抱えているのか、あるいは人間的な自立に向けてどんな問題を持っているのか――そこから子どもたちの発達を援助する教育課程というものをつくりあげないと、業者版のドリルで済むような学校にされてしまいかねない。これは究極の教育課程の形骸化だ。逆に言えば、誰が子どもたちの成長・発達に責任を負うのか、学校がそれにどう責任を負おうとしているのか、そういう意味での教育課程づくりということが求められている。歴史的に、必然的に教育課程の問題が表れようとしている」と教育課程づくりへ向けたとりくみの意義を強調しました。
教育課程づくりの要件とポイントとして、①子どもの実態からスタートすること、②既製品ではなく「自前の教育課程」をつくりあげる努力をすること(あてがいぶちの「特色化」に走らない)、③私たちの足元からの「教育課程」を再生すること(積み上げてきた教育実践の成果に基盤を置くこと)、④父母・住民とともにつくる「教育課程」(子どもたちを真ん中に置いた父母・住民との共同を追求すること)、⑤(学校の施設・設備や教師の労働条件・加配などを含めた)教育条件の整備を要求する視点、の5点を指摘。
「いま私たちはたいへんな時代を迎えていることは間違いない。今回の改訂指導要領は、一方で公教育の究極のスリム化をしようとしており、公教育そのものの意味を台無しにするところまで考えていると思う。そうした意味では非常にピンチだ」とした上で、「この機会に子どもたちの問題に基準をおいて、学校とは何なのか、どういう場なのか、そういう学校にするために教育課程とはどんなに大事なのか、ということを前面に押し立てて具体的な中身をつくりあげながら、施策者がやろうとしているのではない学校の姿を確保する。〝絶対にこういう学校を潰させない、変えさせない〟というとりくみが必要だ」と子どもの実態からスタートしたとりくみの重要性を指摘しました。