【体験者の発言】吉川 嘉勝(渡嘉敷村教育委員会委員長)
ただいま紹介に預かりました吉川でございます。私は、いま沖縄県――いや日本中を騒然とさせております渡嘉敷島北山(にしやま)における「集団自決」の生き残りであります。
まず、今回の「集団自決」の記述についての検定意見撤回のためにお集まりのみなさん、ならびに実行委員のみなさまに敬意を表するとともに、体験者の一人として感謝とお礼を申し上げます。
さて、振り返りますと、あの生き地獄のような惨状から62年が経ちました。あの時の記憶の残る者としては、私の年齢が最も若い世代となってしまいました。
教科書検定意見がまんならない 子どもや孫の世代が危ない
米軍艦からの艦砲射撃、地上からの迫撃砲、「鉄の暴風」飛び交う中を、大雨の中、3月28日、たどり着いた渡嘉敷島の北山の雑木林。そこが我われの「自決」場でありました。村長の「天皇陛下万歳」の合図とともに、あちらこちらで手榴弾が爆発するのを記憶しております。瀕死の叫びがあちこちで聞こえました。飛び散る弾の音とともに、生き地獄――そのような絵巻がはじまったのです。
我々家族が、村民数百名とともに、家族8名、親族約20名が円陣を組んで、義理の兄(兵役を終えて島の防衛隊員として軍籍にあるはずの姉婿の義兄)と私の実兄勇助の手榴弾の爆発を待ちました。しかし、2人の手榴弾はなかなか爆発しません。そんな時です。近くで、いとこが息子を抱きかかえるのが見えました。
母が叫びました――「勇助、うぬ手榴弾やしてぃれー。やさ、にんじんや生ちかりーるうぇーかー、生ちちゅしやさ(勇助、手榴弾を捨てなさい。人間は生きられる間は生きよう)」「死ぬのはいつでもできる。みんな立ってお兄さんの後を追いなさい」――そして、兄の後を追って行きました。それから何分も経たなかったでしょう――爆弾が次々と投下されるわけですから――近くに爆弾が落ちたかと思うと、父親が「う~」とうなってふせました。当然、私たちも伏せました。起き上がって見ると、父の首筋から血が吹き出ていました。その後を歩いていた23歳の姉が――その姉に私は摑まっていたんですが――「お父さん、お父さん、お父さん」と2、3回叫んだだけでした。後は、恐らく「みんないつかはこうなる」と思ったんでしょう。家族は、そのまま父を見捨てて歩き出しました。そして、4日間、水と幾ばくかの砂糖を舐めながら過ごし、8月15日、山から降りてきました。戦後は戦後で、母子家庭の生活は筆舌に尽くせぬものがありました。
私は、今回のことがあって「集団自決」の問題を云々しているのではありません。青年時代から、心の中でそれと向き合ってきました。しかし、自らすすんで発言するようなことはしてきませんでした。子どもたちとともに平和教育として勉強してくる程度でした。
しかし、今回の教科書検定意見には我慢がなりません。いまの状況では、日本にまた、我われの体験したあの時代が来ないとも限りません。「沖縄はまた国の踏み台、『捨て石』になる」「子どもや孫の時代が危ない」――こう考えるのは私だけでしょうか。いや、お集まりのみなさんは、みんなそう自覚しておられるから、ここに参集していただいているのだろうと思います。
為政者は、我われの思いをきちっと、きちっと受け止めるべきです。
歴史を歪曲する「集団自決」の改ざんを許してはならない
沖縄県の慶良間諸島。非常に小さな島です。人々は自然とともに、共生してきました。そうであるので、なぜ、あの悲惨な、忌まわしい「集団自決」という惨事が慶良間島で起こったのでしょう(もちろん、沖縄全島でそれは起こっています)。
それは海上挺身隊という戦隊が特攻艇300隻を配備し、その戦術敢行のためにこの島に駐留したからです。そこに配備された、日本軍の命令、誘導、強制、指示、宣撫、示唆そのような関与がなければ、あのような「集団自決」は絶対に起こっていません。
教科書は沖縄だけの物ではありません。そして、今だけの問題でもありません。次の世代を育む大切な教材です。ですから歴史を歪曲する「集団自決」の改ざんを許してはなりません。歴史から学んで将来を展望するべきです。
それでは、日本軍の命令、誘導、強制、指示、宣撫、示唆そのような関与がなければあのような「集団自決」は絶対に起こらなかったと私が結論付ける事実を、私の体験のみから3点あげてみます。
第1に、渡嘉敷島でも、座間味島でも、そこに日本兵がいなければ、あの大惨事にいたる「集団自決」は決行されていません。軍隊のいない慶良間周辺の離島では、「集団自決」はありませんでした。座間味村でも、およそ1000名がおられたと言われる屋嘉比島でも「集団自決」は決行されていません。我が渡嘉敷村の前島でもそのようなことは一切ありませんでした。
第2に、あの北山に赤松隊長が1000名足らずの人口の中で数百名を集めた。これが渡嘉敷村の惨事の大元です。その赤松(隊長)の命令で、北山に人々が集められなければ一夜にして200名もの人が死んでいくはずはありません。そのあと傷ついた人々は次々に病に倒れ、傷から蛆虫が湧き…。結局、「集団自決」で329名がいのちを亡くしています。
軍隊の大切な弾薬である手榴弾。それが民間の手に渡らなければ、「集団自決」は決行されませんでした。あの弾薬が身近にあったから、多くのいのちが奪われたのです。手榴弾は、まぎれもなく日本軍から渡されたものです。しかも、「いざという時はこれで自決せよ」という文言まで付けて渡しております――その事実を裏付ける証言を列挙する時間はここではない。機会があれば座間味村史、渡嘉敷村史、そして最近の地元史を調査は面倒でも目を通して見てください。
第3に、軍隊である地元の防衛隊員が北山まで「自決」に駆り出されなければ,あれほどまでの惨事にならなかったと思います。防衛隊員は軍籍にあります。軍命違反で惨殺された例はいろいろ書かれております。どうしてここに防衛隊員がいたのか。それは軍の関与を明白に裏付ける決定的証拠と言えます。
その他、「集団自決」を可能にした背景は確かにたくさんあります。当時の皇民化教育、軍国主義教育、戦陣訓の住民への宣撫、島人(しまんちゅ)に対する差別、島国での閉ざされた情報が一切入らない環境などなどです。
「崇高な死であった」とか、「美しい家族愛であった」とか、結論付ける最近の風潮には我慢がならないのであります。
事実は本来、厳然としてそこにある 事実は歪曲されてはならない
大切なことは、事実と解釈を混同してはいけません。事実は本来、厳然とそこにあるはずです。解釈によって事実を歪曲されてはなりません。自分が体験したこれだけをとってみても、「集団自決」が「日本軍の命令、誘導、強制、指示、宣撫、示唆などの関与がなければ、あのような惨事は起こりませんでした」と結論付ける事実は山積しています。事実の歪曲を許してはいけません。
がんばりましょう。ご清聴ありがとうございました。