【ひめゆり学徒の沖縄戦体験】 上江田 千代(東京沖縄県人会 ひめゆり同窓会東京支部副会長)
みなさまこんばんは。ただいま紹介いただきました。元ひめゆり学徒の上江田千代と申します。今日は、この意義ある集会に私の戦争体験を話す機会を与えてくださいまして、関係者のみなさまに御礼申し上げます。
いま問題になっている「軍の命令」があったかどうかということかいうことが、随所に思い出されるんです。例えばですね、私の生まれたのが現在の空の玄関の那覇空港のあたり。戦前は、民間が使う小禄飛行場と言っていました。最初は土地が接収されて、だんだん拡張され、軍が使うようになり、終いには軍の命令で、立ち退き命令が出て村は離散しました。
私たちの子どもの頃の教育はどんなだったか。これも「集団自決」をした人たちがどんな教育をされていたか、たいへんつながるような気がするんです。私が小学校の時、皇民化教育――「皇民」というのは、天皇の治める国の民であるということですから、忠義を尽くすということ――それから教育の指針である『教育勅語』――その中に「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という言葉があるんですね。有事の際には、天皇のため、国のために命をささげる、忠義を尽くす、そういうような徹底された。特に沖縄は、本土と違って強く『皇民化教育』が徹底されたんですね。私も軍国少女として育ちました。
私は教員をめざして、国立で全寮制の師範学校へ1944年に入学しました。ちょうどその年に『学徒動員要綱』が発令されました。それは政府から出たんですが、沖縄では軍の命令で――要するに第32軍、牛島中将の命令で、私たちは那覇の近くの天久というところで高射砲の陣地の構築にでかけたり、いまの那覇空港の周りの掘を掘る仕事など、シャベルでもって肉体労働に励んだんです。当時は、「お腹いっぱいにたべたい」と思っても、たとえば食糧は配給で、衣料は切符制で本当に乏しい生活でした。作業に出た私たちのお弁当は、ちょびっとで、ごぼうの煮しめが2本おかずとして入っている。寮に帰っても味噌が買えないというので味噌なしの塩汁なんです――〝太平洋汁〟なんて私たちは言っていた――そういうものでも、よく倒れないでがんばったなと思います。しかし、当時は、本当に物のない時代で、「欲しがりません勝つまでは」――けなげにも、そういうように子どもの時代から育ってまいりました。当時、国家予算の75%から80%が軍費に使われていたんです。ですから、この数字から国民がどんなに貧しい生活であったかがみなさん、想像できると思います。
そして、とうとう10月10日の空襲(はじめての沖縄の大空襲)がきます。その時は、学校も生徒も無事でしたが、翌年1月にまた大空襲があり、学校にも被害があり授業ができなくなったんです。それで、歩いて帰れる人だけが帰省させられました。とうとう3月になって慶良間諸島に米軍が上陸。いま問題になっている「集団自決」問題の震源地である座間味島では「集団自決」が命じられ171人、渡嘉敷村では329人もの犠牲者が出ているんです。しかし、軍隊がいなかった島はみんな無事なんです。だから、「軍隊は住民を守らない」という証なんですね。
いよいよ3月、情勢が厳しくなって、ひめゆり学徒の先輩たちは南風原の陸軍病院に配属になりました。私は、予科の最下級生だったので先輩たちとは別の壕で働きました。那覇の近くの豊見城村の壕で働きました。沖縄の壕では、ガマというのは、非常に頑丈で直撃を受けても大丈夫なんですけれども、私が働いたところは大きな山に横穴式に掘っていくような、入口が一つしかない非常に危険な壕なんです。そこに爆弾が直撃したら、中のみんなは窒息死ですよね。はじめ壕に足を踏み入れた時に、血と尿と膿のにおいがぷーんとしていて、吐き気をもよおす状況でした。でも直に慣れました。奥の方までずうっと重症患者が簡単な2段ベッドに寝かされていました。患者は全く動けない、歩けないんです。
責任者の将校が2人いまして、女性は私ひとりなんです。歩けるのは3人だけ。私はどんな仕事かというと、他の部隊からご飯が運ばれてくるのをおむすび(ピンポン玉くらいの大きさ)をつくって、これが1日1回の食事なんです。それから、両手を怪我している人に、水を飲ましているんですけれども、だんだん衰弱していくんです。軍医もいない、衛生兵もいない、薬もない、本当にただ寝かして死を待つだけの状況だったんです。死んでしまうと壕の外の穴に捨てる。そうすると空いたベットに、前線から重症患者を運んできてそこに寝かす、死んだら捨てる。毎日、それを繰り返す。本当にこれは地獄のような状況でした。
ある時、壕の移動命令が出ました。それはアメリカ軍が近くまで来て、南へ撤退するわけなんですけれども、壕の移動命令というのは、歩けるものだけを連れて行くんです。歩けないものはどうするかというと、放っておくのではないのです。軍の戦陣訓といって、厳しい規則があって、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかしめ)を受けず」ということで、結局殺してしまうわけです。悲惨です。ですから、私の壕では誰も歩ける人がいませんので、手榴弾が配られました。負傷兵は動揺しませんでした、みんな観念していたんでしょうね。
私は、『皇民化教育』を受けているし、それから「鬼畜米英は女の人を裸にして戦車でひき殺す」とか、そういう噂を信じていましたから、私も「手榴弾をください」ともらい受けました。これくらい(注:手のひらに収まる程度の大きさを示す)の重たい、ちょっと刻みのある手榴弾です。そして将校に死に方を教わりました。そうしたら、「君は、いままでよく働いてくれた。ありがとう。この壕は誰も連れていけないから、君は親元に帰って――両親が近くに住んでいて、父が水を運んでくれていたので将校も知っていた――南へ逃げて生き残りなさいよ」と中年の将校がそう言った。私は、どうせ死ぬならこの手榴弾で両親と一緒に死にたいと思って、その壕を後にしました。
それから後が、たいへんな日々だったんです。壕の中に入っていればある程度安心なわけですけれども、「鉄の暴風」の中へ晒されるわけですから。昼間は絶対に歩けない。食糧だけを持って夜歩く――というのは偵察機がまわってきて、人間が歩いているところが見つかると間髪いれずにドカーンと艦砲射撃が来るんです。24時間艦砲射撃が続いていました。
道に出るとドカンッ、ドカンッ、ドカンッ。歩いては伏せ、伏せては歩きしていると、照明弾が青白い灯がピカピカッと昼間のよう明るくなるんです。バラバラの死体が――まともな死体じゃないんです――バラバラ死体があるのが見える。負傷した人が「お水…くだ…さ…い…み…ず…」と蚊の泣くような声でみんな水を欲しがるんです。でも、かまっていられない、自分も1秒後にはそうなるかもしれない。もう、どんどん行くわけです。私は、その時に「怪我だけは絶対にしたくない」――「まともに生きているか」「即死」――選択肢はその2つだけと思っていました。
また、暗いところを歩いていますと、足元が柔らかくて不安定なんです。照明弾で明るくなると死体の上を歩いていることがわかりました。壕を探してうろついていましたけれど、壕も見つからないし、松の木のところで野宿をしたり、そういうふうにして、彷徨っていました。その時は、もう首里もアメリカ軍の手に落ちて、みんな南の一角に、軍隊と避難民、住民が右往左往の状態でした。南から来る人は北へ逃げるし、北から来た人は南へ逃げるし、袋のねずみの状態だったんです。私は、小さな岩陰を見つけてそこに入りました。そうすると昼間になると、肉眼で見えるところまでアメリカ兵が攻めて来て、ワーワー騒ぎながら民化に火を放つんです。それは日本兵が民家にひそんでいないかということですね。私は「もうこれ以上逃げたくない」と覚悟を決め、自決しようと思って救急箱を開けてみたんです。そうしたら手榴弾がないんです。父が「お前がそれを持っていると本当に死んでしまうかもしれない」と、私に気づかれないように捨ててしまったらしいんです。――でも、いま考えると沖縄には、「ヌチドゥタカラ(命どぅ宝)」という言葉があります。父のおかげ、その言葉のおかげで、私は今日みなさんとここでお会いすることができたんですね。
それで、もうどうしようもない。アメリカ軍は目の前まできている。手榴弾もない。困っているところにひめゆりの先輩が通ったんです。「ああ、先輩」と家族に会えたように嬉しかった。そうすると先輩の話では、6月18日、ひめゆり学徒は日本軍から「壕から出ていけ」と命令され、結局、「北へ逃げなさい」と先生に言われたそうです。もう追い詰められていますから、「じゃあ、私たちも北へ逃げよう」と思いました。そして、忘れもしない6月20日、父は日本兵に撃たれて即死でした。私たちは大黒柱の父を失った。近くにお墓――本土の人はご存じないかもしれません。入り口は畳の半分くらいの大きさですけど、中に入ると6畳とか8畳くらいの大きさがあってすごく広いんです――があったんです。そこへ、入っていきました。
奥の方にはたくさんの避難民がいて、入り口には、負傷した日本兵が「痛い、痛い」と苦しんでいるわけです。蛆がわいているんです。蛆というのは膿を食べ尽くすと筋肉を食らうんだそうです。生きている人の筋肉を。私は気の毒になって、傷を開けて蛆をつまみ出してやると、人間の肉を食べて栄養がいいからムクムクと大きいんです。その憎らしい蛆をひとつづつ潰して――その人が「ありがとう。楽になった」と言うと、次の人が「私も」と――6月20日の昼間は、蛆虫との格闘でした。
しばらくすると静かになったんです。「抵抗しないで出て来い」というようなアメリカ兵の声が聞こえてきた。すると母がお墓の奥の方に小さな穴があって、そこに行きなさいという。2人で入っていたんです。誰も出て行かない。すると爆弾を投げられた。私は気絶してしまって、どれくらい経ったか分からないんですけれども、気がついて目を開けてみるとみんな死んでいました。母と私は奇跡的に無傷で壕から出たんです。結局、アメリカ軍に収容されて、6月21日はトラックに乗せられて、太平洋側の知念村の収容所に行きました。我が家は2畳くらいのところが、与えられたんですけれども、雨が降るとテントが漏るんです。寝るところがない。それから、水もない。すごい不自由で、それから食糧は配給があったけれども足りない。そういう生活でした。けれども、ちっともみじめとは思わなかったんです。
私は、よく高校生や大学生に言うんです。なんで、「みじめではなかった」か。弾は降ってこないし、逃げ回らなくてもいいし、青空のもとを堂々と歩ける――これだけで好かったんです。青空のもとを堂々と歩ける――これがどんなに幸せか、平和がどんなに幸せか。だから、私は絶対に私たちが受けたようなあの戦争の世の中はつくってはいけないと思うんです。
戦争というのは、いかに人間の理性を失った人たちが、お互いに味方を殺し、赤ちゃんが泣くからと言って軍隊が赤ちゃんを殺す、それから方言を使った者をスパイと疑って殺す――牛島中将が命令を出しているんです。そういうように本当に人間として考えられないような、惨たらしいようなことがあった。そういういろんなことを生徒たちは連想して「戦争は起こしちゃいけない。平和憲法を守らなくちゃいけない」――特に9条の精神をはっきりと若い人たちが分かってくる。そして、それが大きく平和への道へ、日本の将来――いや日本だけじゃないです。世界の平和を築いていけるんではないか。だから、教科書というのは正しいこと、真実を伝えるべきだということを私は力説したいんです。
それで、私もできることをと思いまして、先月9月25日にはこの問題の署名をたくさん集めて、文科省に提出しました。そして絶対に教科書からそういうことをしないでくださいと。それから今朝も、杉並の区議会での決議が危ないというので、各党派をまわって、絶対に教科書問題で記述を削除しないようにと申し入れをしてきました。
私もできることを――私は『高校生の平和のつどい』というグループの世話人をしているんです。高校生と一緒になって平和活動を、自分なりにがんばっていきたいと思います。ですから将来のためにもこの問題をみなさんと一緒になって、がんばってこれは是非勝利を得たいと思っています。
がんばりましょう。どうもありがとうございました。